てきとう日記

てきとうです

岩波文庫全部とバヨリンが稼がせてくれないのは確かだが

郊外では教養がつかなくて消費文化を肯定するしかない〜的なツイートが話題になっていた。
正直、チャリで行ける距離に書店があるだけかなりマシだと思う。行動範囲にコンビニすらない場所で育ったが、図書館ってのはあった。だから、自分も教養にアクセスする手段は持っていたといえる。田舎レベルが高い自分でもそうだったのだから、自分以外の多くもそうだろう。
元ツイートが言いたいのは、本にアクセスできるようになっても、その先がないってことなんだろうな。
自分は、今では本の参考文献を伝って当該分野の知識を広げる程度には本の読み方を知っている。でも、小中高時代にそれはあり得なかった。その時代もだいぶ読書は好きだったが、娯楽小説止まりだった。よく言っているが、本も読み方を教えてくれる人がいないと似たものばっかり読んでしまってしょーがない。自分の場合は大学に入って初めて、体系的知識を身につけるための読書を知った。
まあ、正直それはみんなそうだろ。卒論に迫られてリサーチの技術を身につけるものだろう。そして、そもそも、岩波文庫もバヨリンも俺を稼がせてはくれない。バズったツイートというのは、あまり意味がないことが多い。

 

そんな感じで冷笑していたのだが、思い当たるエピソードを一つ思い出した。
子供の頃、ゲームが好きだったので「プログラム」なるものをやってみたかった。それで、中古屋で買ったポケットモンスター赤のソフト(100円)を分解して、基盤を出してみたことがある。今であれば「いや、ソフトウェア的な話であるプログラムとハードの基盤は別じゃんよ」と素人なりにツッコめるけれど、小学生にとって取りうる行動はあれが限界だった。
ここでパソコンを触らせてみたり、さらには簡単なゲームの作り方を指南できる大人が近くにいれば、俺もまたレインマンになっていたかもしれない。今の子供はマイクラを通じてプログラミング的なことをやっているらしく凄いと思うが、俺はすぐにプログラムのことを忘れポケットモンスターで遊んでいた。大人になってパソコンを手に入れてからは「別に実装したいプログラムも思いつかないし、いいか…」と思いやっていない。オー・ライリーを一冊プレゼントされればハマるかもしれんが、趣味としてプログラミングをするつもりはない。趣味は身体的体験を重視しているため、パソコンカタカタはポリシーに反する。


話が逸れたが、都会出身者が羨ましいのは、導いてくれる大人が身の回りにいる可能性が高いため。
「あの時導いてくれる大人がいれば」と大人になってから思うのは、分かるけど。終わったことは仕方がない。挑戦するのはいつからでも遅くない!と美談みたいなことを言うつもりはない。忙しい俺にできるのは、子供みたいな、教え導くべき相手が現れた時、大人なりにリサーチして引導を渡すことだと思う。分野について分からなくても、薄い付き合いのある専門家にTwitterで尋ねることくらいはできる。

 

工業簿記という💩科目のせいで二級の勉強が終わらん。
俺は商業簿記の知識だけ欲しいんだけど、2級まではとっておいた方がいいってことで。素人じゃないですよーという顔ができるから。